第一期Discovery/バーディー時代 ― 2009/06/04 18:31
1991年(19-20才)、仕事もせずブラブラしていたのだが、
中学からの旧友のフェアリーテール(F&C)を退社したYD氏にバーディーソフトに呼ばれた。
CAL1のシステムを譲り受けたYD氏が、
そのシステムをCAL2用に作り直すのを手伝てとの事だった。
その場所で、フェアリーテールを退社してきた美龍氏、林家パー氏、秋まさき氏と再会した。
当然無給の仕事なので、金のないKENJIはみんなにたかっていた。
特に美龍氏は美味しい物を食べさせてくれた。
その後、、しかとみよ氏によばれて、Discoveryへ入社し、斎藤けん坊氏の元、Sweet Emotion、Mirage、Red等を作った。
そのシステムの統合のため、自分が作ったADVシステムを基準とし、PC98,FM-Towns版を自分が、
X68000版をYD氏と自分でくみ上げた(X68000は主に圧縮関連)。
ここでは大越氏とキリヤマ太一氏と出会った。
入社当初は、諸事情のため自分1人しかいないことが多かった。
YD氏はバーディー、自分はDiscoveryと言う別会社にいたが、
社長が(資本ではない)提携関係にあると言うので問題なく過ごしていた。
この頃のバーディーのソフトの殆どを組んだ。
タイトルは、たしかJOKER1/2、PAL、MyEyes!だったと思うが、良く覚えてえない。
Discovery在社中、YD氏から、オレンジソフトのソフトを手伝ってくれないかと言う話がきた。
その話しに乗り、REVIEWと言う最初のタイトルから、PRESENT1/2、イリウム、その他最後のタイトルまで作った。
(ガイアスロードを除く)
オレンジソフトからは最初のタイトル、REVIEW分として20万円ずつもらって残りは無給だったが、
自分のタイトルが増えることが嬉しく、問題視はしてなかった。
しかも、社長がDiscoveryのFM-TOWNS版の編曲をしてくれていたので、
何の問題も無いと考えていた。
REVIEWはPC98のエロゲ史上、初のMIDI対応だった。(MPU-98インテリジェンスモードオンリーだったが)
3社にいるという異常な状態だったが、他の数社でも仕事をした。
同じ様な事をやっていた人がいたし(ただし1度のみ)、
基本は給料をもらっている会社にメインでいたし、
仕事をおろそかにした覚えがないので気にしなかった。
その上、時間があると、開発ツールやフリーウエアなども作るくらい、
プログラムに集中していた。
今考えると、相当やばい事をしていたと思う。素直に謝罪する。
余談だが、この頃、バーディーとDiscoveryで良くカラオケに行っていたが、
大越氏と美龍氏はずば抜けて上手かった。藤原氏は酔うと良く物を壊していたw
中学からの旧友のフェアリーテール(F&C)を退社したYD氏にバーディーソフトに呼ばれた。
CAL1のシステムを譲り受けたYD氏が、
そのシステムをCAL2用に作り直すのを手伝てとの事だった。
その場所で、フェアリーテールを退社してきた美龍氏、林家パー氏、秋まさき氏と再会した。
当然無給の仕事なので、金のないKENJIはみんなにたかっていた。
特に美龍氏は美味しい物を食べさせてくれた。
その後、、しかとみよ氏によばれて、Discoveryへ入社し、斎藤けん坊氏の元、Sweet Emotion、Mirage、Red等を作った。
そのシステムの統合のため、自分が作ったADVシステムを基準とし、PC98,FM-Towns版を自分が、
X68000版をYD氏と自分でくみ上げた(X68000は主に圧縮関連)。
ここでは大越氏とキリヤマ太一氏と出会った。
入社当初は、諸事情のため自分1人しかいないことが多かった。
YD氏はバーディー、自分はDiscoveryと言う別会社にいたが、
社長が(資本ではない)提携関係にあると言うので問題なく過ごしていた。
この頃のバーディーのソフトの殆どを組んだ。
タイトルは、たしかJOKER1/2、PAL、MyEyes!だったと思うが、良く覚えてえない。
Discovery在社中、YD氏から、オレンジソフトのソフトを手伝ってくれないかと言う話がきた。
その話しに乗り、REVIEWと言う最初のタイトルから、PRESENT1/2、イリウム、その他最後のタイトルまで作った。
(ガイアスロードを除く)
オレンジソフトからは最初のタイトル、REVIEW分として20万円ずつもらって残りは無給だったが、
自分のタイトルが増えることが嬉しく、問題視はしてなかった。
しかも、社長がDiscoveryのFM-TOWNS版の編曲をしてくれていたので、
何の問題も無いと考えていた。
REVIEWはPC98のエロゲ史上、初のMIDI対応だった。(MPU-98インテリジェンスモードオンリーだったが)
3社にいるという異常な状態だったが、他の数社でも仕事をした。
同じ様な事をやっていた人がいたし(ただし1度のみ)、
基本は給料をもらっている会社にメインでいたし、
仕事をおろそかにした覚えがないので気にしなかった。
その上、時間があると、開発ツールやフリーウエアなども作るくらい、
プログラムに集中していた。
今考えると、相当やばい事をしていたと思う。素直に謝罪する。
余談だが、この頃、バーディーとDiscoveryで良くカラオケに行っていたが、
大越氏と美龍氏はずば抜けて上手かった。藤原氏は酔うと良く物を壊していたw
Discovery/バーディーソフトを去る ― 2009/06/05 01:41
1992年、20-21才。
前年の沙織事件の影響で、JOKER2は修正を余儀なくされたが、
年末のREDには無かったことになっていた。
そして1992年中頃。バーディーソフトから社員が大量離脱した。
バーディーは当時、CALシリーズが収入の大部分を占めていのだ。
そこへCAL3のスタッフの離脱である。
バーディーと新規会社トゥインクル設立の言い分は双方にあると思う。
美龍氏はCAL3の膨大な構想をまとめる事に時間がかかっていた。
近くにいた自分が相談相手になれなかったのも問題だったと思う。
CAL3の開発は難航し、息抜きに美龍氏はスト2にはまり、
同人誌を書くまでになっていた。
それを社長が発見し、会社で発作的に蹴飛ばしていた。
社長の怒りももっともだ。
しかし、ただでさえCAL3の構成に難航していたのと、
自分の子供である同人誌を、
いつもニコニコしていた社長が蹴飛ばしていたのを偶然見て、
美龍氏は即座に会社の寮からの引越を決定、
弟さんのジープを使い、夜逃げ同然で新ブランドを建てる事にした。
美龍氏を守る位置にいた自分も積極的に動き、
DiscoveryのREDの開発には関わらず退社する予定だったが留意され、
プログラムを組むことになった。
その後、Discoveryを去ることとなった。
自分はDiscovery退社時にDiscoveryスタッフに迷惑をかけてしまい
バツが悪く、その後は連絡は取り合わなかった。
前年の沙織事件の影響で、JOKER2は修正を余儀なくされたが、
年末のREDには無かったことになっていた。
そして1992年中頃。バーディーソフトから社員が大量離脱した。
バーディーは当時、CALシリーズが収入の大部分を占めていのだ。
そこへCAL3のスタッフの離脱である。
バーディーと新規会社トゥインクル設立の言い分は双方にあると思う。
美龍氏はCAL3の膨大な構想をまとめる事に時間がかかっていた。
近くにいた自分が相談相手になれなかったのも問題だったと思う。
CAL3の開発は難航し、息抜きに美龍氏はスト2にはまり、
同人誌を書くまでになっていた。
それを社長が発見し、会社で発作的に蹴飛ばしていた。
社長の怒りももっともだ。
しかし、ただでさえCAL3の構成に難航していたのと、
自分の子供である同人誌を、
いつもニコニコしていた社長が蹴飛ばしていたのを偶然見て、
美龍氏は即座に会社の寮からの引越を決定、
弟さんのジープを使い、夜逃げ同然で新ブランドを建てる事にした。
美龍氏を守る位置にいた自分も積極的に動き、
DiscoveryのREDの開発には関わらず退社する予定だったが留意され、
プログラムを組むことになった。
その後、Discoveryを去ることとなった。
自分はDiscovery退社時にDiscoveryスタッフに迷惑をかけてしまい
バツが悪く、その後は連絡は取り合わなかった。
何も決まっていない。 ― 2009/06/05 20:44
まだ、何も決まっていない。暫定で6/5からFAXの様に作れとの事だが、
そのFAXが、曖昧すぎて話にならない。
ソフ倫も踏ん張りどころだろうが、頑張ってほしい。
そのFAXが、曖昧すぎて話にならない。
ソフ倫も踏ん張りどころだろうが、頑張ってほしい。
スタジオ・トゥインクル時代 ― 2009/06/06 10:37
そんなこんなで、スタジオ・トゥインクルを始めた。
スタッフは、
美龍氏、林家ぱー(林家志弦)氏、秋まさき氏、
(元バーディーのCGの)OKI氏と自分の5人であった。
代表はもちろん美龍氏、経理担当は自分だった。
実質、リリーススケジュールを出したり、発売日を
出したりしたのは自分で、
後年のBLACKPACKAGEと同方式だった。
(自分はBLACKPACKAGEの社長ではなく
取締役開発部長だ)
あのときの5人は
親友と言ってよいほど結束力が高かった。
ただ、自分がいないときには自分の悪口が
言われて無いかと皆内心は心配だったと今では思う。
みんなの給料に関しては、
自分と美龍氏の貯金から出し、
毎月1人6万円ずつになった。
この金額は現在では考えられないと思う。
それが通ったのも、この業界はまだ若く、
自分たちは『一つの目標に向かって進む仲間』であり、
一日の食事を制限してでも皆でソフトを作りたいと
皆が思ってたからこそ出来たことである。
流通は自分が以前から付き合いのある
RSKのK氏に頼んだ。
音楽はその頃から親交のあった
HuMI氏(佐野広明氏)に依頼したと思う。
HuMI氏と出会ったのはたしか東京BBSだったと思う。
そして出来処女作 Mirror-鏡-は、
即席で作ったにしては出来はそこそこだったのだが、
売上がバーディーで作ったCALの数万本単位に対して、
4000本と急落した。
自分たちはブランドなんて関係ないと思っていたが、
そう易々とは行かなかった。
お金のやりくりは、全部自分が扱っていたので、
相当厳しかったのを覚えている。
Mirrorはパッケージが初めてのデジタル入稿だったので、
ネガポジ逆転で広告に載った覚えがある。
パッケージは無事だった。
この様に初期の頃からパッケージにセルではなく、
デジタルで入稿していた。
もしかするとMirrorはHuMI氏では無かったかも知れない。
そして金銭的にも苦しい中で制作した
分裂守護神トゥインクル☆スター。
続きは明日。
スタッフは、
美龍氏、林家ぱー(林家志弦)氏、秋まさき氏、
(元バーディーのCGの)OKI氏と自分の5人であった。
代表はもちろん美龍氏、経理担当は自分だった。
実質、リリーススケジュールを出したり、発売日を
出したりしたのは自分で、
後年のBLACKPACKAGEと同方式だった。
(自分はBLACKPACKAGEの社長ではなく
取締役開発部長だ)
あのときの5人は
親友と言ってよいほど結束力が高かった。
ただ、自分がいないときには自分の悪口が
言われて無いかと皆内心は心配だったと今では思う。
みんなの給料に関しては、
自分と美龍氏の貯金から出し、
毎月1人6万円ずつになった。
この金額は現在では考えられないと思う。
それが通ったのも、この業界はまだ若く、
自分たちは『一つの目標に向かって進む仲間』であり、
一日の食事を制限してでも皆でソフトを作りたいと
皆が思ってたからこそ出来たことである。
流通は自分が以前から付き合いのある
RSKのK氏に頼んだ。
音楽はその頃から親交のあった
HuMI氏(佐野広明氏)に依頼したと思う。
HuMI氏と出会ったのはたしか東京BBSだったと思う。
そして出来処女作 Mirror-鏡-は、
即席で作ったにしては出来はそこそこだったのだが、
売上がバーディーで作ったCALの数万本単位に対して、
4000本と急落した。
自分たちはブランドなんて関係ないと思っていたが、
そう易々とは行かなかった。
お金のやりくりは、全部自分が扱っていたので、
相当厳しかったのを覚えている。
Mirrorはパッケージが初めてのデジタル入稿だったので、
ネガポジ逆転で広告に載った覚えがある。
パッケージは無事だった。
この様に初期の頃からパッケージにセルではなく、
デジタルで入稿していた。
もしかするとMirrorはHuMI氏では無かったかも知れない。
そして金銭的にも苦しい中で制作した
分裂守護神トゥインクル☆スター。
続きは明日。
分裂守護神トゥインクル☆スター ― 2009/06/07 00:09
昨日の続き、分裂守護神トゥインクル☆スター。
林家氏が主体でつくられた。
彼女も、美龍氏も、オールラウンドの実力を持つ、
良い意味でのライバルだった。
あの当時はみんなで雑魚寝をしていた。
林家氏が主体といえども、
戦闘シーンのチップ等はノータッチでOKI氏が担当した。
(ストロベリー大戦略で武将の顔をあれだけ描けていた
林家氏なので描けないことは無いと思うが)
しかも2キャラずつ競い合ってキャラデザをしていたし、
ライバル意識も感じられた。
売りの変身シーンの原画はアニメーターに発注した。
たしか1キャラ24枚程度のCGだったのだが、
メモリとFDDの読み込みスピードを稼ぐのが
大変だった覚えがある。
もちろんCGも、
塗りと多大なラインの修正を同時に行い大変だったはずだ。
今回も5000本程度の初回で、厳しいものだったが、
リピートがなかなか良かった。
キャラ人気は林家氏が描いた方が人気だった。
この事で、美龍氏の闘志が燃え上がった気がした。
何で人気が出なかったか、
秋氏と相当話し合って次回作に生かそうとしていた。
トゥインクル☆スターの変身シーンのバンクは
当時の技術としては凄かったのだが、
少し前に出たヴァリアブル・ジオのOPでは中2(計4枚)で
綺麗に風になびく髪の毛を表現していたり、
数カ所の数枚のポイントアニメーションだけで、
完成度の高さを見せつけられた。
自分たちの敗北を感じた。
枚数ではなく、センスなのだと。
林家氏は、1本の線に命を掛けており、
相当集中して線入れをしていた。
そのため、
気に入った線が描けないとしばしば机を叩いていた。
林家氏がコンプRPGでロードス島戦記のカレンダーの
1ページを書くことになった。
いつも通り、ポップでいい絵を仕上げた。
原稿を取りに来た副編(知り合いの知り合いだった)が
ついでにと、結城信輝氏のカラーの
生原稿をみせてくれた。凄いオーラを感じた。
甲冑の騎士が、剣を下げている絵だ。
副編が帰った後、
林家氏が凄い敗北感を感じていたように
自分には見えた。
方向性が違うと励ましても、空しいだけだった。
美龍氏、林家氏だけでなく、自分、秋氏も含めて、
『誰にも負けたくない』と、思うようになっていった。
貧乏生活なので、食費は極限まで減らした。
特にOKI氏の作ってくれたモヤシ炒めが美味しかった。
一度、にんじん嫌いで偏食の林家氏の事を思って、
巾着ににんじんのみじん切りを入れてくれたのだが、
綺麗ににんじんだけ残していたw
それと、みんなで、7-11へ行って、
肉まんとおでんのちくわぶを買ったりした。
秋氏は、路駐をしてた自慢のGTOのNAのボンネットに、
お下劣マークを書かれ、直すために全ペイントをしたw
その上、8時間以上の駐車で青空駐車の切符を切られたw
楽しい時代だった。いつまでも続くと思っていた。
後日に続く
林家氏が主体でつくられた。
彼女も、美龍氏も、オールラウンドの実力を持つ、
良い意味でのライバルだった。
あの当時はみんなで雑魚寝をしていた。
林家氏が主体といえども、
戦闘シーンのチップ等はノータッチでOKI氏が担当した。
(ストロベリー大戦略で武将の顔をあれだけ描けていた
林家氏なので描けないことは無いと思うが)
しかも2キャラずつ競い合ってキャラデザをしていたし、
ライバル意識も感じられた。
売りの変身シーンの原画はアニメーターに発注した。
たしか1キャラ24枚程度のCGだったのだが、
メモリとFDDの読み込みスピードを稼ぐのが
大変だった覚えがある。
もちろんCGも、
塗りと多大なラインの修正を同時に行い大変だったはずだ。
今回も5000本程度の初回で、厳しいものだったが、
リピートがなかなか良かった。
キャラ人気は林家氏が描いた方が人気だった。
この事で、美龍氏の闘志が燃え上がった気がした。
何で人気が出なかったか、
秋氏と相当話し合って次回作に生かそうとしていた。
トゥインクル☆スターの変身シーンのバンクは
当時の技術としては凄かったのだが、
少し前に出たヴァリアブル・ジオのOPでは中2(計4枚)で
綺麗に風になびく髪の毛を表現していたり、
数カ所の数枚のポイントアニメーションだけで、
完成度の高さを見せつけられた。
自分たちの敗北を感じた。
枚数ではなく、センスなのだと。
林家氏は、1本の線に命を掛けており、
相当集中して線入れをしていた。
そのため、
気に入った線が描けないとしばしば机を叩いていた。
林家氏がコンプRPGでロードス島戦記のカレンダーの
1ページを書くことになった。
いつも通り、ポップでいい絵を仕上げた。
原稿を取りに来た副編(知り合いの知り合いだった)が
ついでにと、結城信輝氏のカラーの
生原稿をみせてくれた。凄いオーラを感じた。
甲冑の騎士が、剣を下げている絵だ。
副編が帰った後、
林家氏が凄い敗北感を感じていたように
自分には見えた。
方向性が違うと励ましても、空しいだけだった。
美龍氏、林家氏だけでなく、自分、秋氏も含めて、
『誰にも負けたくない』と、思うようになっていった。
貧乏生活なので、食費は極限まで減らした。
特にOKI氏の作ってくれたモヤシ炒めが美味しかった。
一度、にんじん嫌いで偏食の林家氏の事を思って、
巾着ににんじんのみじん切りを入れてくれたのだが、
綺麗ににんじんだけ残していたw
それと、みんなで、7-11へ行って、
肉まんとおでんのちくわぶを買ったりした。
秋氏は、路駐をしてた自慢のGTOのNAのボンネットに、
お下劣マークを書かれ、直すために全ペイントをしたw
その上、8時間以上の駐車で青空駐車の切符を切られたw
楽しい時代だった。いつまでも続くと思っていた。
後日に続く
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